高校三年生

表題と同じ「高校三年生」という歌がありますよね。昔の歌です。小さい頃、おじいちゃんのトラックの中で聴いた覚えがあります。

 

最近、桐野夏生という作家が書いた『グロテスク』という本を読みました。

 

いろいろと感想はあるのですが、それはまた別の機会にということで、今回は、『グロテスク』を読んでいる時に思い出した私の高校時代のことを書いてみたいと思います。

 

私は、幼稚園から高校までの約14年間をアメリカで過ごしました。

 

高校もアメリカの現地校に三年間通いました。

 

私はずっとアメリカ暮らしだったので、高校生活にはすぐ慣れました。

 

私は小学生の頃から野球をやっていて、高校でも野球部に入りました。

 

しかし、私の高校の野球部はとてつもなく弱く、練習も週に三回だったので、放課後はいつも暇でした。

 

放課後暇な時は、近所に住んでいる同級生を誘って釣りに行っていました。

 

家の近くに大きな池があったので、同級生と一緒に釣竿と仕掛けとバケツを持って出かけ、地面に横たわった大木に腰かけ釣りをしていました。

 

釣りをしている間、私と同級生の間に会話はほとんどありませんでした。

 

学校ではいつもワイワイガヤガヤふざけ合う私たちでしたが、釣りをしている時だけは、誰もが口を閉ざしてしまうのでした。

 

それだけ釣りに集中していたのです。

 

もちろん釣れる時もあれば釣れない時もある。それが釣りというものです。

 

私たちは「釣れても釣れなくてもいい」と思っていました。

 

釣り道具を抱えて池に釣りに行く。それだけで心が高鳴りました。

 

高校時代で思い出すのは、やはりあの頃仲のいい同級生と大好きな釣りをした思い出です。

 

野球部も楽しかったことは楽しかったのですが、やはり釣りの面白さには敵いません。

 

野球はスポーツです。だから、勝ち負けがあります。

 

釣りは勝ち負けがありません。

 

釣れなかったら負けじゃないの?

 

いいえ。違います。釣れなくても負けではありません。そして、いくらたくさん釣れたとしても勝ちにはなりません。

 

相手にしているのは自然です。

 

自然相手に勝ち負けなんてありません。

 

そもそも私たち人間は自然に勝てるわけない。私はそう思っています。

 

私たちは自然なしでは生きていけません。私たちは自然に行かされているということを忘れてはいけません。

 

だから、自然を前にして、勝ち負けはないのです。

 

私たちは、自然があるから、釣りをして楽しむことができる。

 

釣れても釣れなくても、それはそれでいいのです。

 

自然があるおかげて、私たちは釣りをすることができる。

 

ただそれだけです。

 

もちろん釣れなかった時は多少落ち込みます。

 

でも、自然のせいにすることはありません。

 

自然は私たちのために存在しているわけではないからです。

 

釣れなかった時は、素直に自分の腕が悪いことを認めるべきです。

 

釣れたら自然に感謝をし、釣れなかったら自分の腕の悪さを反省する。

 

それが釣りというものです。

 

だから、釣り人は釣りが好きなんだと思います。

 

私は、高校時代釣りをしながら、こんなことを考えていました。

 

大学生になった今も暇ができては釣りに出かけています。

 

しかし、日本の大学には、釣り好きの人があまりいません。

 

少なくとも私の周りには数えるほどしかいません。

 

私の周りにいる釣り好きの人は、釣った魚の数を競って楽しんでいる人が多いです。

 

今日、俺は20匹釣った。俺は22匹。俺は27匹。

 

そうやって自分が釣りあげた魚の数を自慢しあうのが好きな人たちです。

 

でも、私はそういう釣りは好きではありません。

 

確かにたくさん釣れたり、大物が釣れたりすると嬉しくなります。

 

でも、それが釣りの最大の面白さかと聞かれると、私は違うと思います。

 

私も「釣りとは何か」についていろいろ考えてみました。まだ自分の中で確かな答えは出ていません。

 

でも、数やサイズではないことは確かです。

 

釣りに出かける前の心が高鳴るあの感じ。これもちょっと違う気がします。

 

もしかすると、釣りをしばらくやめてみると分かるもかもしれません。

 

まあ、もうちょっとすると学校のほうが忙しくなり、釣りに行けなくなるかもしれません。

 

その時にでもゆっくり考えてみます。