重松清 『エイジ』 シカトに対する考え方

小説はノンフィクションだから、小説の中に書かれた言葉の全てが筆者自身の考えとイコールの関係にあるわけではないと思う。

小説には登場人物がいるわけで、登場人物が言ったセリフや登場人物の頭の中の考えは、ほかの誰のものでもなく、その登場人物自身のものなのかもしれない。

だから、『エイジ』の中に書かれた思いや考えが重松清さんの思いや考えとイコールなのかどうかは分からない。本人に直接聞いてみないことには確かめようがない。

残念ながら、僕は重松清のことは知らない。
だから、直接聞くこともできない。

という前提で、『エイジ』の中に書かれている、シカトに対する考え方をここに記しておきます。




シカトと他のいじめには、目立つかどうか以外にも、はっきりとした違いがある。

暴力や金がからむいじめは暴行とか傷害とか恐喝とかの犯罪にくっつくけど、日本の法律に無視罪という犯罪はない。

言葉のいじめに対して「二度とそんなこと言うな」と説教する先生も、シカトを叱るときに「二度と無視するな」とは言えないはずだ。

なぜって、誰としゃべろうが誰としゃべるまいが、それは個人の自由なんだから。

頭いいよなあ、と僕はシカトのいじめを世界で初めて考えついた奴を尊敬する。

相手の存在を無視するのは、究極のいじめだ。

これに比べれば、殴ったり蹴ったり傷つく言葉をぶつけたりするのなんて、相手と接点を持つぶん甘いんじゃないかとさえ思える。

たいしたものだ。シカトの創始者を尊敬する、ほんとうに。

でも、ぜったいに、ぼくはそいつを好きにははらない。





僕もシカトこそが究極のいじめだと思う。

シカトのいじめは、手も出さなければ、口も出さない、ただ意識的にある特定の人物と一切の関わりを断つ。それがシカトだ。

誰にでも簡単にできる。

暴力によるいじめは、いじめる相手より自分の力が勝っているという前提があってはじめて行動に移すことができる。

言葉によるいじめの場合も、相手より口達者でなければならない。

シカトは、どんなに力が弱くても、口達者でなくてもできる。そして、いつでも始めることができる。

簡単にできるいじめだが、その効果は絶大だ。

昨日まで友達だと信じていた奴に突然無視される。

存在を無視されるわけだ。まるで空気のような扱いを受ける。

シカトなんて幼稚ないじめだ、と思うかもしれないが、シカトされたほうはすごく傷つく。

数あるいじめの中でも、最も陰湿で悪質なのがシカトだ。

シカトをするやつは、頭がいい。

自分は絶対に傷つかない。

もしシカトを咎められたとしても、確かに誰としゃべるか、誰としゃべらないかは個人の自由だと言われれば、頷かざるを得ない。

自分は絶大に傷つかないし、完璧な言い逃れができるスマートないじめ。それがシカト。

だけど、僕はやはりシカトといういじめをして、自分の良心が痛まない奴とは仲良くできない。

シカトのような陰湿ないじめをするやつは弱虫で、救い用のない陰キャラだと思う。

絶対まともな大人にならない。

そんな弱虫と友達になるなんて死んでもいやだ。