多重人格 『プリズム』を読んで

だいぶ前に大学で友達何人かとやってる読書会のために書いたちょっとした書評のようなもんです。

 

だいぶ前に書いたやつなんで、本の内容はあまり覚えてません。

 

(ここまでは今書きました。これより下はだいぶ前に書いたやつです)

 

 

百田尚樹さんが書いた『プリズム』って本やけど、まず、この百田尚樹って人について考えてみた。

 

作家をやっている人はみんなそうなんかも知れんけど、ほんまに想像力豊かやなあと思った。

 

だって、小説って、作家自身の実体験に基づいて書かれてるものもあるのかもしれんけど、やっぱ一番多いのは、作者の空想を書いたやつでしょ?

 

犯罪もんなんてそうやん!?

 

その小説を書いた作者は決して犯罪者ではないし、犯罪に関わったこともない人やと思う。

 

それなのにあんだけリアルに犯罪について書けるのは、まさしく想像力豊かな証拠やろ?

 

そりゃ、インタビューをしたり、文献で調べたりするんやろうけど、登場人物の名前も上手に選んではるし、ストーリーも矛盾がないように上手く構成してあるし、そんなこと想像力が人並み外れて豊やないとできへんことやと思う。

 

そんで、今回読んだ『プリズム』は多重人格について書かれた小説なんやけど、もちろん作者の百田さんは多重人格やない。

 

つまり、自分が経験したことのないことを書いてることになる。

 

確かに本の終わりに参考文献が何冊か書いてあるけど、参考文献から得られた知識とか情報を上手く織り交ぜて、あんだけのストーリーを作れるっていうのはほんまにすごいことやと思う。

 

多重人格って俺も会ったことないし、実際にどういうものなのか想像もつかない。

 

本の中にも、「ある意味、私たちはみんな多重人格なのかもしれない」って書いてあるけど、俺もそう思うわ。

 

だって、どんな人だって、自分の中にいろんな自分を持っているわけやろ。

 

酒飲んで人が変ちゃうっていう人もいるし、人によって態度を変える人もいるし、みんな何人かの自分を上手く切り替えながら社会生活を送ってる。

 

俺だってそうや。いつも同じ自分なんてことはあり得ない。

 

めっちゃ嫌な気分のまま寝て、次の日の朝起きたら気分がすっかり晴れていた時なんかは、ほんまに人が変わったんちゃうか思うくらいの変わりようにびっくりする。

 

でも、本の中に書かれてた多重人格とはやっぱり違う。

 

だって、俺は自分の中に何通りもの自分を持っているのかも知れんけど、やっぱり全部俺やし、記憶も一個しかない。

 

何か悲しいことがあって、すごく落ち込んで、普段の俺とは全然違う俺になっても、それはいつもの自分との延長戦に過ぎないし、記憶も一個だけ。単なる気持ちの変化に過ぎない。だから、激しい気持の変化があったからといって、人が変わったっていうわけでもないし、それは結局一人の自分に中で起きた変化に過ぎないっていうことや。

 

多重人格の人は、本の中に書かれているように、ほんまに人格が入れ替わる。

 

朝起きた時は、Aという自分だったんやけど、いつのまにかBという自分に変わっている。(こういう表現をするんが正しいのかどうかは分からんけど)

 

朝6時から11時まではAだったけど、11時過ぎにBになった。

 

だとすると、Bという自分は朝6時から11時まで自分が何をしていたのか分からんはずやし、その間の記憶がすっぽり抜け落ちでいることになる。

 

これってめっちゃ怖いことやない!?

 

Bという自分に入れ替わった瞬間(その瞬間何が起きるのかは分からへんけど)、自分がどこにいるのか、何をしているのか、どうしてここにいるのか分からんようになるわけやろ?

 

そんなんパニックになるやん。

 

周りの人も驚くやろうな。

 

多重人格の人が知り合いにいる人なんてそうおらんやろうから、もし自分の周りに多重人格の人がおって、自分の目の前でその人の人格が入れ替わったとする。

 

その時どういうやり取りをするのか想像もつかへんけど、いきなり本気で「私は誰、ここはどこ」って言われたら、そりゃびっくりするよ。

 

結局は、俺の周りには多重人格の人なんて一人もおらへんから、俺は多重人格っちゅう言葉は知っていても、それが一体どんなもんなんか想像もしたことないし、ましてや多重人格についてもっと知りたいなんて思ったことは一回もなかった。

 

でも、今回本当に偶然、本屋でこの本を手に取り読んでみると、そこには俺が知らない世界が広がっていた。最初こそ、「多重人格=精神異常=頭がおかしい人」みたいな考え方があった。書中の細かい描写を読んでると、「ほんまに怖いなあ」と思った。

 

読み終わった後も、多重人格についてもっと知りたいと思うようにはならんかった。もし今後俺が実際に多重人格の人と会う機会があったとしても、俺は積極的にこちらからその人と関わりを持とうとはしないかもしれない。それは分からない。

 

けど、今回この本を読んで、少なくとも今まで自分が知ろうともしなかった多重人格という世界を少しだけ知ることができた。

 

そして、今後もし多重人格の人と出会うことがあっても、その人と積極的に関わりを持つことはないとは思うが、その人を理解しようとは思うかもしれない。まずその人を蔑んだ目で見たりすることはないと思う。この世界には、「多重人格」という世界があることを知った今、その世界に深入りしようとは思わないけど、次回もしもその世界と関わるようなことがあれば、もっと理解しようと努力するかもしれない。それは分からない。

 

小説の力ってまさにこういうことなのかもしれない。

 

人は生きている間いろいろな世界に出会う。一生のうちに出会える世界は本当に少しだけ。

 

自分が知らない、または知り得ない世界については、その世界について知っている誰かに教えてもらうしかない。

 

俺たちの多くはもの凄く狭い世界に生きている。実際に知っている人は本当に少ない。

 

だから、本を読む。自分が知りたいと思っている世界について、それを経験したことある人、またはその世界についての知識を持っている人が身近にいればいいが、俺たちの身の回りにそんな都合のいい人はなかなかいない。だから、本を読む。

 

他人が創り出したストーリーに知らぬ間に引き込まれているのは、そこに自分の知らない世界が広がっているからだ。

 

その世界こそがまさに私たちが小説を読む理由ではないだろうか。

 

ああ、ほんまにつまらんことを書いたもんやわ。

 

書評にもなってないし。

 

まあ、それでも俺が『プリズム』を読んで思ったことやし、この本に対してなんか責任があるわけやないし、別にええか。